リゾートバイトで訪れた山奥のホテル
まだ私がホテルのフロントマンとして働いていた頃の話だ。
当時、私はリゾートバイト(通称リゾバ)の求人サイトを通じて、田舎の山の中腹にあるホテルに派遣社員として勤務していた。
そこは安さが売りの家族向けホテル。
ファミリー層をターゲットにした戦略が見事にヒットしており、特に週末ともなれば尋常ではない数のお客様が押し寄せていた。 夕方前にはチェックインでフロントがごった返し、朝はチェックアウトの対応でさながら戦場と化す。
「またのお越しをお待ちしております! ……次にお待ちのお客様、どうぞー!」
昨今の新型感染症の影すらなかった当時。
朝から大きな声を張り上げ、100組前後のチェックアウト業務をひたすらこなすのが、私の日常だった。
フロント業務のささやかな楽しみ
「視世くん、レジ金の計算が終わったら、お客様アンケートも一緒にまとめておいてくれない?」
全組のチェックアウトが終わり、売上金のチェックをしていると、主任からアンケート整理を頼まれた。 客室に置かれているアンケートを回収し、支配人に渡す前に軽く目を通しておく仕事だ。
クレームというほどではないが「気になったこと」が記入されていることも多く、現場レベルで問題点や解決策を把握しておくための重要な業務だった。
「わかりました。回収が終わってる分は全部まとめて出しときますね」
『いいホテルでした。また来させていただきます』という嬉しい言葉もあれば、『夜のバイキングが混み合ってて楽しめなかった』といった厳しい意見もある。
忙しいリゾートバイトの業務の合間、この多種多様なアンケートに目を通すのは、私のささやかな楽しみでもあった。
あの日までは。
503号室からのアンケート
「うわっ……」
ある日、いつものように回収したアンケートの束を読んでいた私は、思わず変な声を漏らしてしまった。 そして同時に、「ついに来たか……」と顔を引きつらせて苦笑いした。
客室に設置してあるアンケートは、様々な項目を5段階で評価してもらい、最後に自由記入欄があるという一般的なものだ。 問題のアンケートも、評価項目自体はすべて普通に5段階の丸がついていた。 しかし、自由記入欄に書かれていたお客様からの「一言」が問題だった。
【最後にお客様のご感想をお聞かせください】
● お部屋番号( 503 )号室
バイキングの食事内容が素晴らしく、味もよかったです。
お部屋もきれいで満足でしたが、夜に枕元に知らない人が立っていました。
「503号室」
実はそのホテルでは、「503号室には何かいる」という噂が、スタッフの間でまことしやかに囁かれていたのである。
清掃スタッフが語る「503号室」の異変
以前、客室清掃のスタッフからもこんな話を聞いたことがあった。
「誰かと一緒に作業してる時は何もないんだけど、1人で掃除してると、ふと『人の気配』がするのよ」
「綺麗に並べて配置したはずの座布団がさ、ちょっと目を離した隙に向きがズレてたことがあって……」
私自身がその部屋で霊的な何かを視たり聴いたりしたことはなかった。
しかし、チェックアウト後の忘れ物チェックで客室を回る際、503号室に入った時だけ、空気が重いというか、他の部屋とは違う嫌な雰囲気を肌で感じることが多々あった。
恐怖の「無言チェックアウト」
アンケートを見た私は、支配人に届ける前に慌てて主任に報告した。
しかし、主任との会話の中で、私はさらに恐ろしい事実に気がついてしまった。
「ねえ、そのお客様のチェックアウト……視世くんが担当したのよね?」
伝票を再チェックすると、確かに私がその家族のチェックアウト対応をしていた。
「その時、何も言ってなかったの?」
「いえ……特に何も……」
そこが1番異常なのだ。
503号室に宿泊したお客様は、「夜に枕元に知らない人が立っている」という異常事態を経験したにも関わらず、アンケートに短い一文を残しただけで、私には一言も告げずに無言で帰っていったのだ。
もしも、枕元に立っていたのが「本物の人間(不審者)」だった場合、ホテルの重大なセキュリティ問題になる。お客様の所持品や命の危機さえあるし、普通なら血相を変えてフロントに怒鳴り込んでくるはずだ。
しかし、無言でチェックアウトしたということは、実害(窃盗など)はなかったのだろう。
「たぶん宿泊したお客様も、わかってたんだろうな……」
フロントに文句を言ってどうなる問題でもない。「あれは人間ではないナニカだ」と直感したからこそ、事を荒立てず、ただアンケートに一文だけ添えて逃げるように帰っていったのではないだろうか。
おわりに
その後、このアンケートは主任から支配人に報告され、上層部で話し合いがもたれたらしい。
結論から言うと、「お客様が直接申し出なかったのは、事を荒立てたくなかったからだろう。もし今後お客様から連絡が来るまでは、こちらから触れるのはやめておこう(=放置)」ということになった。
隠蔽体質というか、いかにも事勿れ主義のホテルらしい対応だった。
今はあのホテルがどうなっているのかはわからない。
ただ、私がリゾートバイトの期間を終えて退職するまでの間、503号室に宿泊したあのお客様から、ホテルに連絡が来ることは二度となかった。


コメント