シミュラクラ現象
シミュラクラ現象、という言葉を知っているだろうか。
人間の目には、3つの点が集まった図形を「人の顔」と見るようにプログラムされている、という脳の働きのことだ。 和訳は類像現象。
壁のシミや木目の模様が、ふとした瞬間に誰かの顔に見えてしまう……あの現象のことだ。
学生時代のある日、私は同じクラスのYちゃんにこの話を披露したことがあった。
「ねえ、シミュラクラ現象って知ってる?」
「知らない。何それ?」
「模様とかシミとか、3つの点が近くにあると、勝手に人の顔に見えちゃうこと。人間の脳がそう見えるようにプログラムされてるんだって」
得意げに語る私に、Yちゃんは盛大な溜め息をついたのを覚えている。
「その頭の良さを、もう少し真面目に勉学に生かそうとは思わないの?」
そんな、他愛もない学生時代の思い出を書き出したのには理由がある。
つい先日、そのYちゃんから数年ぶりに連絡が来たからだ。
しかし、その連絡は懐かしい挨拶から始まったものではなかった。
「ねぇ……あんた、オカルト的なこと詳しかったよね?」
唐突なメッセージに変事を察知した私がすぐに返信すると、彼女からの返事は即座に電話へと切り替えられた。 受話器越しに聞こえるYちゃんの声は、かつての明るさを微塵も感じさせないほどに沈んでいた。
「学生時代に教えてくれた、点が3つ集まると顔に見えるって話……覚えてる?」
彼女は挨拶もそこそこに本題に入った。
「シミュラクラ現象のこと?」
「そう、それ! ……この前、友達の家に泊まったんだけどさ、そこで視ちゃったのよ」
彼女が語りだしたのは、ある築年数の古いアパートでの体験だった。
その日、Yちゃんは友人の家で酒を飲み、そのまま知らず知らずのうちに眠ってしまったのだという。
ふと吐き気を感じて目を覚ましたのは、空が少し白み始めた早朝のことだった。
薄暗い部屋の中で、隣には友人がスヤスヤと眠っている。
少し脳が覚醒してきた時、横たわったまま見上げた壁に、ふと目が釘付けになった。
少し黄ばんだ壁紙を凝視していると、そこに、小さな人の顔のようなものが視えた。
「ヒィッ……!」
元来怖がりな彼女は一瞬息を呑んだが、すぐに深呼吸をして自分を落ち着かせた。
「……あ、これ、視世くんが言ってたやつじゃない? 点が3つあったら顔に見えちゃう、えっと……シミュラクラ現象」
学生時代の私の言葉を思い出したことで、彼女は完全に冷静さを取り戻した。
「なんだ、脳の錯覚か」
そう自分に言い聞かせ、トイレを済ませてから、彼女は何を考えるでもなく二度寝したという。
だが、恐怖はそこからだった。
「次に起きたら、もうお昼だったの」
友人が作ってくれた食事をしながら、Yちゃんはふと早朝の出来事を思い出した。
「そういえば、さっきあそこの壁に顔が見えたんだよね」
そう笑いながら、朝方に「顔」が視えたはずの場所を指さした。
「……でもね、シミなんてどこにもなかったの」
全体的に薄く黄ばんでいる壁紙は記憶のままだったが、顔に見えるシミが3つある箇所など、どこにも見当たらなかったのだという。
「見間違いじゃないの? お酒も残ってたんでしょ?」
私の問いかけに、彼女は震える声で返した。
「うん、私も最初はそう思いたかった。でも……それだけじゃないの」
朝の出来事を不気味に思いつつも、友人には黙っていた彼女。
その後、2人で写真を撮り合ってふざけていた時、さらなる異変が起きた。
「友達を写真に撮ろうとした時、スマホが反応しちゃったの。 最初は友達に顔認証の枠が反応してたんだけど……その枠がいきなり別の場所に飛んだのよ」
「……どこに?」
私の問いに、Yちゃんは息を呑んだ。
「朝方に、シミを視た場所に。顔認証の枠が飛んでいって、そこから動かなくなったの」
何もない、ただの黄ばんだ壁紙。 そこに、スマホの最新技術ははっきりと「顔」を捉えていた。
もしそれが「シミュラクラ現象」なら、それは人間の脳が起こす錯覚に過ぎないはずだ。
光学機器であるスマートフォンのカメラが、何もない空間を「顔」として認識し続ける理由にはならない。
「怖くなって、すぐにカメラをオフにしたわ」
そう言って、Yちゃんは電話を切った。
結局、あの夜に彼女が体験したのが何だったのか、今でもわからずじまいだ。
ただ、こういった話を聞くと、技術が進歩しすぎるのも考えものだと思ってしまう。
人間の脳なら「見間違い」ですむ話も、機械は決して見逃してはくれないのだから。


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