悠長な構えと、突然の耳鳴り
(金縛りだ。久しぶりだな……)
その日も最初は、そんな風に悠長に構えていた。
真っ暗でないと眠れないため室内は闇に包まれており、まだ窓から朝の光も射していなかった。
息苦しささえ我慢していればそのうち解けるか、そのまま眠りについて忘れるだろう。
そんな軽い気持ちだった。
しかし、その油断はすぐに裏切られることとなる。
キィィィン……
いきなり、鼓膜を突き破るような激しい耳鳴りが私を襲ったのだ。
「耳鳴りを伴う金縛りは危険である」という話を聞いたことはないだろうか?
聞いたことがある方はその危険度合いがわかるかもしれないし、聞いたことがなかった方は、今後のためにぜひ覚えておいてもらいたい。
気圧差によるものや持病によるものを除けば、金縛り中の突然の耳鳴りは「霊がすぐ近くにいる可能性が高い」と言われているのだ。
(ヤバい……)
突然の耳鳴りを引き金に、一気に緊張感が走る。
たとえ瞼を閉じていても、その向こう側の風景が強制的に「視えて」しまう恐怖感。
これは実際に体験した人にしかわからない感覚だろう。
暗闇に現れた2メートルの「黒い影」
金縛りの恐怖が生み出した単なる幻想だと言われれば、そこまでだ。
だが、幻想であれ何であれ、“ソレ”は確かに形を成して動き出したのだ。
部屋の扉が開いたわけではない。
ソレは「黒い大きな人型」となって、入口付近の空間に突如として発生した。
ゆらゆらと輪郭を震わせながら、ゆっくりゆっくりと、だが確実に、私が寝ているベッドの方へと歩みを進めている。
ソレは身の丈2メートルほどはあった。
不定形なその黒い存在は、異様なほどの遅さで私の方へ近づいてくる。
(あれはヤバい……)
本能的に強烈な危険を察知した私の脳だが、意に反して体は全く動かない。
末端の末端に意識を集中してみるものの、足の小指でさえピクリとも動かなかった。
ただでさえ息苦しかった呼吸が、さらに浅く苦しくなる。
(これは本当にヤバいって……!)
とうに語彙力を失った思考は、単純な恐怖だけを連呼し、何とかこの鉛のような体を動かそうと足掻いていた。
しかし無情にも、ソレは着実にこちらへと近づいてきている。
そんなに広い部屋ではない。
どんなにソレの歩みがゆっくりであろうが、距離はすぐに詰められる。
人間の歩く風ではなく、ズリズリと、ナメクジのようにゆっくりと這い寄ってくるのだ。
迫り来る絶望と、動かない体
(動け動け動け動け……ッ!)
怖いという感情以外の思考は、すべて『動け』という切実な命令のみに集中していた。
なおも近づいてくるソレが、部屋のメイン照明のヒモの下を通過した。
「暗闇を照らすための手段が1つ物理的に潰された」という事実が、私にさらなる恐怖の追い打ちをかける。
それからさらに数分が経過したのだろうか?
もう時間の感覚などなかった。
人間の歩幅でいうなら、あと1歩踏み出せば私が寝ているベッド際。
ソレはそこまで迫っていた。
金縛りが開始してから何百回と繰り返された『動け』という脳からの命令は遂行されることなく、ただただ恐怖と息苦しさ、そして脂汗だけが私を支配していた。
(……もう、駄目だ)
ついにベッド際までソレが到達し、私を覗き込むような動きに入った。
手にあたる部分らしきものを、こちらへ伸ばそうとしているのがわかる。
(終わった……)
私は、すべてを投げ捨てることを決意した。
ギリギリの生還と、坂本との電話
『で? 結局何だったのソレは?』
翌日。電話口から、珍しく真剣なトーンの坂本の声が聞こえてきた。
「わかんねーよ。電気スタンドつけたら、一瞬で消えてた」
この文章が書かれていることからも明白であるが、結果として私は無事だった。
すべてを投げ捨てようとしていたあの絶望の瞬間、愚直なまでに繰り返されていた命令が、奇跡的にピクリと遂行されたのだ。
足の小指が動き、全身が劇的に自由を取り戻した。
ソレの向こう側に部屋の電気のヒモがあったため、そちらは叶わない。
私は弾かれたように腕を伸ばし、枕元にある電気スタンドの光に縋ったのだ。
結果は坂本に話したとおりで、パッと光が点いた瞬間には、すでにソレは跡形もなく消え去っていた。
『まぁ、お前は憑かれやすいからな』
私達2人の会話でなければ「疲れやすいからな」とでも変換される内容だが、残念なことにこれは学生時代から幾度となく繰り返されてきた注意だ。
どうやら私は「憑かれやすい(憑依されやすい)」体質らしい。
『またどっかから憑いてきたんだろう。霊は別に、心霊スポットや墓場だけにいるもんじゃないからな』
普通に道を歩いていても、スーパーにも、海や山にだって、どこにでもいるらしい。
言い得て妙である。
霊が心霊スポットや墓場にしかいないというのは、生きている人間の勝手な固定観念だ。
その理屈を通すのであれば、生きている人間は家や職場だけにずっといなければいけないということになる。
『もしくは、ただの通りすがりの霊か』
人の家を通過するのだけは、ぜひとも遠慮してもらいたいものである。
「昨日は結局一睡もできなかったけど……今日も大丈夫か不安でさ」
『大丈夫じゃね? 今は自分の部屋なの?』
「うん」
電気さえ点けていれば平気だということは判明しているので、今はそこまでの恐怖心はない。
『……何かいる雰囲気もないし、変な声が聴こえたりもしないから、大丈夫だろ』
他の人間からの言葉なら、ただの無責任な気休めにしか聞こえないだろう。
しかし、こういう分野に関しての坂本の言葉は、私に多大な安心感を与えてくれるのだ。
「よかったよ。電気点けっ放しじゃ眠れないからな」
『神経質なのは相変わらずなのな』
それから少しだけ世間話をして、電話を終えた。
事実はホラー映画よりも奇なり
これにて、この金縛りの体験談は終わりである。
ホラー映画などの劇的な展開に慣れている人からしたら、「え? これだけで終わり?」と拍子抜けするかもしれない。
だが、事実は小説より奇なり。
現実の恐怖体験なんてものは、何とも言えない不気味な後味だけを残して、あっけなく終わってしまうからしょうがないのだ。
しかし、私から言わせてもらえば、「電気が点いて一安心。ホッとして後ろを振り返った瞬間、そこに世にも恐ろしい霊が立っていた!」なんていう展開の方が、いかにもホラー映画チックな眉唾物の作られた話だと感じてしまうのである。

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