社会人となってから、夜の街でよく酒を飲むようになった。
これは、行きつけのスナックで体験した忘れられない出来事である。
その日は、入店した瞬間から店内に妙な空気が漂っていた。
「あっ、視世さん!いらっしゃい!!」
顔馴染みのキャストであるAちゃんが、カウンター端のいつもの席へ案内してくれた。
「水割りでいい?」
「うん、お願い」
いつものやり取りだったが、ふとAちゃんの顔色が異常に悪いことに気がつく。
夜の店ということもあり、やや濃いめのメイクをしているのだが、それでも隠しきれないほどの青白さだ。
しかし、平日にしては店内が混み合っていたため、テンションを下げるような話題は避けるべきだと判断し、黙ってグラスを傾ける。
その後も、キャスト達は忙しそうに広くはない店内を行き来しており、私はその姿を酒を飲みながら眺めていた。
すると、その視界の隅に信じられないものが飛び込んできたのである。
(……手?)
肩にかかるほどの長さがあるAちゃんの巻き髪の隙間から、青白い小さな手がニュッと突き出していたのだ。
見間違いかと思い何度も瞬きを繰り返すが、その手は確実にそこにある。
時折フッと視えなくなる瞬間はあるものの、気配そのものが完全に消えることはなかった。
まるで赤ん坊のような小さな手からは、生きている人間の生気はまったく感じられない。
手は肩口にあるのに、まるで駄々っ子が母親の足元からすがりついているような、奇妙な感覚を覚えたのだ。
「視世さん、どうしたの?」
あまりにも凝視しすぎていたせいで、見送りから戻ってきたAちゃんに尋ねられる。
店内の客もまばらになり、閉店時間も近づいていたため、小さな声で軽く聞いてみた。
「Aちゃん、今日体調悪くない?」
唐突な質問に驚いたようだが、すぐにいつもの営業スマイルを作って答える。
「そうなんだよね。他のお客さんは気づかなかったみたいだけど、さすがに視世さんにはバレたかぁ」
体調不良は事実のようだ。
ここから踏み込むべきか、それとも口をつぐむべきか迷っていると、彼女の方から口を開いた。
「いつもと何か違う?」
首を傾げながら問う彼女の様子に、覚悟を決める。
間違っていたら失礼極まりない質問だったが、意を決して尋ねた。
「間違ってたら本当にごめんね」
「えっ?なになに?」
「子どもを堕ろしたことか、流産したことってある?」
あまりにも残酷で、無礼な質問。
辛い過去をえぐる行為かもしれないし、見当違いであっても怒られて当然の言葉である。
しかし、Aちゃんは感情を取り乱すこともなく、静かにこう告げた。
「視世さん、今日の閉店後って時間取れる?」
「明日休みだから大丈夫っちゃ大丈夫だけど……」
「頑張って片付け早めに終わらせるからさ、どっか近くで待っててくれない?」
そう言ったAちゃんは、無理して笑っているようだった。
その後、店の外で彼女の仕事が終わるのをひたすら待った。
事情を知らない人が見れば、完全に常軌を逸した出待ち客である。
やがて「お待たせ!」と駆け寄ってきたAちゃんと合流し、少し離れたファミレスへと向かった。
「いいよ、どうせ休みっていっても予定もないし」
「そんな寂しいこと言わないでよー!」
そんな軽口を叩き合うが、彼女の表情はやはり暗い。
「……話しにくかったら、無理しなくていいからね」
非常にナイーブな問題だ。
いくら親しいとはいえ、一介の常連客に打ち明けるような内容ではないだろう。
それでも彼女は「ううん、聞いてほしいの。気づいたのが視世さんでよかった」とポツリポツリと語り始めた。
「私ね、最初の子を流産しちゃったの」
彼女がシングルマザーであることは以前から聞いていた。
元夫のDVが原因で離婚し、現在は実家で1人の子どもを育てているという。
しかし、その前に流産を経験していたのは初耳だった。
「悲しかったし、めちゃくちゃ泣いたよ。そしてその悲しみと、命の尊さを忘れないために、アンクレットを作ったんだ」
言われて足元に視線を落とすと、華奢な足首に細いアンクレットが光っている。
ブレスレットだと職種によっては身につけられず、仕事の邪魔にもなってしまう。
だからこそ、目立ちにくい足元を選んだと彼女は言った。
「流産した日を命日にして、毎年その日だけ付けてるんだ。忘れないためにね」
もう10年ほど前の出来事だという。
当時彼女はまだ20歳そこそこ。
想像を絶するような悲しみを、若くして抱え込んでいたことだろう。
「……髪の隙間から、子どもの手が視えたんだ。たぶん甘えたくて、おんぶされてるような感じなのかな」
「うん、そうだと思う。今日1日、ずっと肩が重かったから」
そう語る彼女は、失った命の重みを全身で受け止めているように見えた。
「最初は怖かったんだけどね、何となくわかるんだ。母親だもん。産んであげることができなかった、あの子だって」
笑顔のまま、彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「今までね、何人かに相談もしたんだよ? でもみんな口を揃えて、『供養しなよ!』ってしか言わないんだ」
世間一般の反応としてはそれが普通だろう。
顔色が悪くなるほどの影響が出ているのだから、決して好ましい状態とは言えない。
「けどね?それでも私の子どもなんだ。体調とかのこともあるから、年に1回しか一緒にいてあげられないけど、確かに私の最初の子どもなんだって、そう思うの」
心配してくれてるのはわかってたから、供養を勧める知人達に反論できなかったのだろう。
強がっていた笑顔は消え、悔しそうにギュッと拳を握りしめていた。
そこで、過去に聞いたある言葉を、少しだけ言い回しを変えて伝えてみる。
「霊感が強い友人から聞いた言葉なんだけど……」
「え?」
「水子の霊を供養すると、その子は2回死ぬことになる。流産した時と、供養させられるときの2回」
「そう!それなの!」
「だからこそ、命の大切さや尊さを知って受け止めてるAちゃんは偉いと思うし、すごいと思う。月並みな表現だけど『母は強し』ってね」
その言葉を聞いた途端、Aちゃんはせきを切ったように号泣し始めた。
これまで長い間、たった1人でその悲しみと向き合い、耐え続けてきたに違いない。
今はただ、気の済むまで泣けばいいと思った。
「本人に直接憑いているなら、健康を考えて俺も供養を勧めたかもしれない。けど、アンクレットに宿っていて、それも年に1回しか付けないなら、大丈夫かなって思う。無責任なことは言えないけどね」
泣き止みつつあることを確認し、私はそっと言った。
「ホントにね、ちょっと具合が悪いぐらいなの。顔色は化粧で隠せるし、動けないほどの体調の悪さじゃないの」
「無理がないのなら、誰にも止める権利はないさ」
頷く彼女の肩口には、まだ小さな手が乗っている。
しかし、その表情は憑き物が落ちたかのような、晴れやかな笑顔に変わっていた。


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